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山根卓二はサンケイ新聞東京本社編集局次長時代の1976年1月23日付サンケイ新聞で中国の周恩来元首相が遺書を残し、その中で毛沢東が死ぬ直前に中国の指導部内で深刻な対立があったことを示唆した、との署名記事を書いた。この記事の中でニュースソースは『ある筋としか書けないのだが』としていた。 1979年10月、KGBの少佐として日本で工作活動をしていたスタニスラフ・レフチェンコが日本のアメリカ大使館に亡命申請をし、即座に認められ米国本国へ亡命した。その後、米国ではレフチェンコを議会に招喚し秘密聴聞会を行った。1982年7月14日、レフチェンコは米国下院の秘密聴聞会で日本のジャーナリストを操っていたと証言。さらに「大手新聞社の工作員1人はオーナーがきわめて信頼を寄せる人物であり、ソ連がこの新聞を通じて自国に有利な政治状況を作るのにその工作員を利用した。」とし、「彼(工作員)は『周恩来が遺書を残している』という記事を書いたが、これこそ1970年代にソ連が捏造したものの中で最も成功したケースであった。」と上記山根が書いた「今日のレポート」を指し示しながら証言した。 このレフチェンコ証言を当時毎日新聞の特派員であった古森義久が1982年12月2日にスクープとして報道した。一週間後に公開された当該聴聞会の議事録では山根の書いた「今日のレポート」が添付され、ねつ造(FORGERY)のスタンプが押されたものだった。 また、後にソ連を亡命した元KGBの書庫官ワシリー・ミトロヒンが秘密裏に持ち出したミトロヒン文書にも山根がKANTというコードネームを持つマスメディア内工作員であり、その存在をKGBが重宝していたことが記載されている。